感動して始めたことも、
悔しくって始めたことも、
傷つきたくなくて始めたことも、
傷つく覚悟で始めたことも、
自分のためと思って始めたことも、
誰かのためと思って始めたことも、
「やめる」ということを始めたことも、
なんだろうなってその出どころを感じたとき、私に見えたのは「愛」でした。
どんな始まり、選択、それが一見愛することとは真逆のように見えることでも、テキトーに曖昧に選んだことでも、そういう形で愛情をかけている。
本当に「愛したい」や「愛されたい」がなくなったとき、そのとき果たして人って生きているのだろうかと思う。
生きているということは、自分では足りないと思っていようが全くないと思っていようが、そこには愛があるように、私は感じています。
だから、自分が選んだ道の途中で、時に不安や悩みが湧くこともあるだろうし、間違えたと感じることもあるだろうけれども、
その根にある「愛」を、表れ方に惑わされずに見つけることができたら、現状がすぐに変わらなかったとしても、見えないところでものすごい大切な変化が起き始める。
始めは「頭では解る」という感じかもしれないけれど、だんだんと真ん中の方に落ちてくる。
落ちてきてどっしりしたら、その力で今度は伸びていく。
必要なタイミングで目に見える世界にも溢れ出してくる。
そこで見える光は「新しく得るもの」ではなくて、きっともうもともとあった宝物。
今、伝統を先生たちから学んでいて思うのは、ヨーガって愛に気付く道だなということ。
いろんな捉え方があるだろうけれど、私が学びを通して受け取っているものはそれです。
愛については、時に頭で考えると判断や理解の難しいこともある。
頭で考えることは邪魔者じゃないし生きることを助けてくれるものだけれど、働かせ方によってはとても大切なものを見失うことがある。
ヨーガスートラは、こんがらがってしまいがちな頭や心の仕組みの解説から、整理してそのまんまを観る術を教えてくれる、どの時代や国に生きる人にとっても助けになってくれる智慧だと感じています。
そのまんまを観るというのはきっと、おっきな愛の中に生きるということ。