2018/01/10

1月6日(土) "わたし"と一体感



6年前、ヨーガのトレーニングで出逢ったカトリックの友人がいる。
どういう話の流れだったかあるとき彼女が、
「カトリックじゃなくてもミサに一度行ってみるといいよ」
と勧めてくれたことがある。
そのときは、じゃあ行ってみよう!とすぐに腰を上げるほど興味が湧かなくて参加しないままだったけれど、それから2〜3年が経った今日、夕方にふとその言葉を思い出した。
ちょうど近くの教会で夜からのミサがあったので初めて参加した。



彼女の言葉を思い出すきっかけになったのは、「天使にラブソングを」を観たことだった。
(クラブ歌手のデロリスが、殺人現場を目撃して追われる羽目になり、カトリック系の修道院にかくまってもらうところから物語が始まる。)
さらに言うと、映画を観るきっかけになったのは、16か17歳の頃に「 Oh Happy Day 」を歌う機会をもらったことがとても大事なことだったと、今週急に思い出したからだった。



ミサはとても良かった。
説教は、確かこんなお話だった。

『人はみんな何かを探し求めるように出来ている。
本当に大切なものは、自分の考えや思い込みの領域では見つからず、探し求めて歩いているときに、天の計らいによって向こうからやってきてくれる。
自分のもくろみが外れたとき、自分には向いていない・どうしたらいいのだろうと途方に暮れたときこそ、大切な宝物が運ばれてくる。
自分の力で全部しているようで、そうではない。
神さまの方からいつだって手を差し伸べて下さっている。
見放されている人はひとりもいない。
自分がその手を取ろうとするかどうか。』

『「わたしを探して」自分の内側から聴こえてくるその声をよく聴くこと。』

『「”あなた”に逢いたい」その想いがあれば、星が導いてくれる。』

確かにそのようにして、わたしは宝物に出逢っているなぁと、数々の出来事と大切な人たちを思い浮かべながら聴いていた。
先生たちの言葉や学びの中での気づきとも重なって、よりじんわりと沁みた。



「天使にラブソングを」の中でメアリーロバートという修道女は、「望んでこの道に進んだのか」と尋ねたデロリスにこんなことをこっそりと告白する。

『奉仕が自分の使命だと思ってた。でももっと、自分の力を発揮したいの。わたしでなければ出来ないことで. . . よくない考えかしら?虚栄心?』

デロリスはそれに対してただ、「そんなことないわ」とだけ答えている。
言葉の少なさが愛おしかった。



献身的に生きていたメアリーは、世のため人のために生きたいことは本心ではあったけれど、何かが足りないと感じていた。
デロリスに出逢ったことで、自分の力を発揮することや内側を充実させることがただの利己的なことではなく、全体のためになることを体験を通して知った。
奔放に生きていたデロリスは、「歌う」という自分の大好きなものに触れていたけれど、虚しく感じていた。
修道院での生活に飛び込んだことで、はじめは嫌がりながらも、奉仕することの中で自分を本当に生かすこととその喜びを見出した。



内側の充実感と、大きな輪の一部としていることが同時にあるという感覚は、時折体感して、そのたびにあぁ忘れたくないなぁと思う。
かたよる可能性も、どんな結果も怖がらずに、自分のそのまんまに素直になってやることが、そこに繋がっていく。
どんなふうになったって、それは学びだし、愛だし、きっとすべて味になって生かすことができる。



ミサと映画のおかげで改めてそんなことを感じて、生きる力が内側から大きく広がったような気がした。